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2012/04/21

宇野常寛『リトル・ピープルの時代』を読んで

快適NEET生活は読書が捗って困る。いや困りはしないか。
のっけから余談ですが、読んだ本全ての読書感想文をここに記している訳ではないです。上にもあるように『日々と思考を紡ぐ』場所なので、何か感じるもの・考えるものがあった時にまとめるようにしています。

そんでもって本題の今回の本はこちら。表紙のライダーがカッコ良い。







アニメ・特撮・ドラマなどの日本のサブカルチャー群に関する文芸批評、というよりかはむしろ文化動向を現代の思想や社会情勢の中に位置づけて論じる、という社会学の本というイメージです。
無論自分は文芸批評とか社会学は宇野さんの本を読んでみただけ、程度の知識、というよりはもはや情報しか持ち合わせていないので、専門的な批評とかは全くできないしする気も毛頭ありませんので、この本を読んで感じたこと・印象に残ったことを素直にここに記そうかと。



戦後~冷戦下、強大な国民国家を精神の拠り所にし、それを支えることが唯一の正義、という〈大きな物語〉を抱えた時代=『ビッグ・ブラザーの時代』から、冷戦の終結とグローバリズムの進展に伴うビッグ・ブラザーの壊死・解体期を経て、貨幣と情報の巨大なネットワークによって〈すべて〉が接続された現在=『リトル・ピープルの時代』に至るまで、その社会構造や思想の変遷を、同時期を生きた想像力から読み解く、というのが本書の流れ(合ってるか甚だ不安)。

その想像力として、本書で大きく取り上げられているのが、まず国内で特異的に商業的な成功を収めている村上春樹の一連の作品。そしてもう1つ、ゴジラやウルトラマンに端を発する特撮ヒーローたち、中でも特に仮面ライダーシリーズにスポットを当てて論じられています。



冒頭に書いたように詳しいことは自分の表現力・考察力では無理なので省略。以降、本文中に出てきた言葉を使いながら簡単に感想を。



宇野さんが本書で表現するように、現代の日本社会は『リトル・ピープルの時代』、即ち一人ひとり(=リトル・ピープル)が生きる〈いま、ここ〉を大切にして、周囲を共にするコミュニティや同好の他人とのコミュニケーションこそを希求する時代である、という主張には、個人的にとても共感できるものがあります。

少し前まで学生だった自分は、実家のばあちゃんに「しっかり勉強したら、いい会社に入って、みんなのために頑張らなきゃならんぞ」とよく言われたものですが、自分はこれにほとんど共感できませんでした。
戦争も高度経済成長も、バブルも冷戦も所詮『教科書の中の話』でしかない。この世に生まれ生きてきた時間は『失われた20年』なんてなかったコトにされ、大企業の倒産もごく当たり前、あまつさえ国や自治体が破産する世の中。ばあちゃんの言う『いい会社』や顔も知らない『みんな』、引いては『国家権力』に至るまで、信じるに値する『ビッグ・ブラザー』なんてもはやどこにも存在しない。
かと言って絶望し世を儚んで……なんてこともしない。この世の終わりなんて望んではいない。北朝鮮がミサイルを打とうが原発が爆発しようがこの世は終わらない、アルマゲドンは起こらないということを知っているから。
寄るべき大樹も終末も、〈ここではない、どこか〉を追い求める必要はない、自分たちが生きる〈いま、ここ〉に生の意味を見出せばいい。少なくとも自分は今そんな風に感じています。
「将来こうなればいいなぁ」とか「こういうことをしたいなぁ」と考えることもありますが、それはどれも漠然としていて現実味を帯びておらず、自分ゴトでありながらいまいちピンとこない。それならば、今目の前にあることを一生懸命やる、今自分が好きなことを一生懸命楽しむ、目に見える世界に共に住まう人たちと繋がる、そういうことに心を生を尽くしたい。
同世代の中でも「そうでないよ」という人は勿論いると思います。でも自分の印象としては、周りを見てもそんなに多くいるわけではないかな、といった感じ。そういう方々も、もはや『ビッグ・ブラザー』ではなく、1人の『リトル・ピープル』なんですよね。多様な価値観が等しく認められる時代。相容れない部分はあれど、リトル・ピープル同士コミュニケートすることはできる。抱える問題や困難がない訳ではない、むしろ山積みな現代ですが、それでも今いるここはそんなに悪くない、と感じています。


と長くなりましたが、要約すると「宇野さんの言ってること、凄ぇわかる!」ですね(笑)日本社会全体を論じたものが、個人の体感レベルで共感できる、というのも『リト・ピー』の時代だからこそ、なのかもしれませんね(他の時代を知らないだけ?)。


さらにもう1つ感想を述べるなら、社会構造を反映した作品として今回取り上げられた春樹とライダー、この2つが選ばれたことにも面白い意味があるなぁと感じました。
(純)文学が商業的に不成立のジャンルとされて久しい中、ただ一人『商業的』成功を収めてきた(いる)村上春樹。ビッグ・ブラザー=信奉すべき絶対正義が失われた現代に、『商業的』な要請から敢えてその正義を語らざるを得なかった(平成)仮面ライダーシリーズ。この『商業』、即ち『市場』が日本のポップカルチャーに大きな影響を与えているという側面が強く描かれていたように思います。
本書でも述べられていますが、かつて強大な権力の象徴であった国民国家の時代は終わり、インターネットの普及でグローバリゼーションが爆発的に進んだ結果、現在では貨幣(=市場)と情報(=web)のネットワークが国家の上位に君臨し、すべてを等しく接続しています。 昨年Facebookを起爆剤に起きたアラブの春であったり、市場に翻弄されるヨーロッパ国家であったり、今絶大な力を持つのはこの無機質な巨大ネットワークと言えるでしょう。時代の想像力を励起させるのも当然ということなのかも。

さらにさらにもう1つ加えるなら、この市場による社会の変化を最も鋭敏に反映させたのは日本のポップカルチャーであるということです。
本書ではアメリカにおける現代を反映する想像力として、バットマンシリーズ最新作『ダークナイト』(2008)が取り上げられています。その登場人物である『ジョーカー』にスポットを当てて論じられているのですが、このジョーカーに匹敵する想像力が日本では既に2002年『仮面ライダー龍騎』に登場していたというのです!(詳細はやはり本編を参照して頂きたい)

またこれとは別に本書では、インターネットと共に急速に発展した、コミュニケーションを重視する社会=「つながりの社会性」、これを実によく反映したものが日本の至る所で確認できるとしています。2ちゃんねる等の匿名掲示板、携帯電話対応のコミュニティサイト群などに見られる匿名的かつムラ社会的な共同性の構築や、魔法のiらんど、ニコニコ動画、pixivなどによるn次創作の増幅……アメリカ発のグローバル/ネットワーク社会を日本的(アジア的)なものへと改変させ、独自の進化を遂げたことで、現代日本の想像力を生み出す起爆剤(その逆もまた然り)になっているとしています。
かつてトヨタやホンダがアメリカ発のモータリゼーションを日本的なものに変化させていったように、これらの想像力もまた大きな可能性を持っているのではないか、と。 元々、海外の技術を日本的に改変・改良させるのは日本の得意分野でしたもんね。世界を席巻……とまでは行かずとも、世界の至る所で日本のポップカルチャーが大きな反響を得ているという事実が、それを予感させます。以前のエントリーでも書きましたように、日本の想像力、近年ではガラパゴスと揶揄されるもの、それこそが、世界の中でも価値あるものとして羽ばたく可能性がやはりあるのではないでしょうか。
(このエントリーでも宇野さんが参加したシンポジウムを取り上げてましたね。この話題に関しては同じく参加されていた濱野智史さんの『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』も参照されてはいかがでしょうか)






とまぁ大変長くなりましたがこの辺でおしまいです。
消化しきれていないところも多いのでさぞかし読みにくいと思います。ただ趣味嗜好もあいまって感じる所の多い本でしたので、何か書き残しておきたいという気持ちで書いてみました。読んでくれた方はもぉ本当に何というか……おつかれさまでした(笑)

この世のものとは思えない読みにくさの自分の文とは違い、宇野さんの語り口は、非常にわかりやすく、頭にすっと入ってくる不思議があります。専門用語を使っていたり当然触れたことのない作品も出てきたりするのですが、丁寧な解説が施されているおかげでしょうか、理系人間の自分にもとても馴染みやすいものになってます。
そもそも宇野さんとの出会いも、本屋でたまたま見かけた前作『ゼロ年代の想像力』をふと立ち読みし始めたら止まらなくなったのがきっかけでした。4万字超の補筆を加えた文庫版が出ているそうなので、興味を持った方はこちらも是非。





しかし今回これを読んで、平成仮面ライダーシリーズに俄然興味が湧きました。小さい頃、と言っても中学生でしたが、日曜の朝、部活の練習へと赴く前にクウガやアギトを見ていた記憶があります。時間を見つけて見返してみようかな。

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