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2011/11/08

映画『星を追う子ども』を観て in CLARK THEATER 2011

ある日、父の形見の鉱石ラジオから聴こえてきた不思議な唄。その唄を忘れられない少女アスナは、地下世界アガルタから来たという少年シュンに出会う。2人は心を通わせるも、少年は突然姿を消してしまう。「もう1度あの人に会いたい」そう願うアスナの前にシュンと瓜二つの少年シンと、妻との再会を切望しアガルタを探す教師モリサキが現れる。そこに開かれるアガルタへの扉。3人はそれぞれの想いを胸に、伝説の地へ旅に出る……。



知る人ぞ知る新進気鋭の若手アニメーション監督・新海誠の最新作。
中学生の主人公アスナが異世界へと旅立つ、超王道冒険スペクタクルファンタジー。
見た感想はと言うと、




め ち ゃ く ち ゃ 良 か っ た 。


……自分は大抵のアニメは面白かったと言うようにできているので、あまり参考にならない感想ですが(笑)、だがそれでも何度でも言いましょう、


本 当 に 面 白 か っ た 大 好 物 で す 。


と。
以降、少しネタバレを含みながら思うところをつらつらと綴ってみます。



とにかく作品の完成度が本当に高い。
主人公である少女が異世界への旅を通じて成長するオーソドックスなストーリーではありますが、オーソドックスなものを面白く見せることができるのは、その作品が本当によく練りこまれたものであるからに違いないと思います。王道には王道たる理由がある。そしてそれは誰もが通れる道ではなく、選びぬかれた世界、"王の道"なんだと。

日本や海外の伝承をモチーフに細かく描写された舞台設定や美術などは必見。またそこに新海監督ならではの美麗な背景美術(今回は美術監督の丹治さんか?)が合わさることで、劇場の大画面で見ているとすーっとその世界に引き込まれるかのよう。アガルタ世界の描写だけでなく、現実世界での自然描写(新海監督の故郷がモデル?)も大変素晴らしいです。ジブリ作品の男鹿さんのよう。

ジブリで思い出しましたが、作品の随所にはかの有名なジブリ作品へのオマージュが散見されます。もののけ姫やトトロ、千と千尋にラピュタ、ナウシカ、ハウルもちょっとあったかな?映画を見ていて「お、これは?」と思える箇所がちらほらと。もともとこういう少年少女の冒険ファンタジーはジブリの専売特許みたいなところがありましたもんね。いちジブリファンとしてはそれも大いに楽しめる内容でした。
普通こういうオマージュって「パクリだ!」なんて揶揄されることも多いですが、『星を追う子ども』では新海監督を初めとしたスタッフによる世界観がしっかりと確立されているので、そういった捉え方はされないのではないでしょうか。いいじゃない、ジブリ以外にもこういう話を作る人がいたって。むしろ必要ですよ。よくぞ挑戦してくれたと言いたい。

展開としては『異世界へ行って帰ってくる』というシンプルなものですが、作品を通して様々なキャラクターたちの物語に合わせて、非常に多種多様なテーマが散りばめられ、交錯しています。少女の成長であったり、故人を偲ぶ愛であったり、閉塞からの旅立ちなどなど……そのどれもが魅力的で、見る人によって好きな物語、好きなキャラクターが変わるんじゃないでしょうか。

さらに凄いのが、そういった複数の物語や設定が入り組んでいるにも関わらず、見ている方はすんなりと物語を追えてしまう、そのわかりやすさ!置いてけぼりにされることは無いように自分は感じました。一体どう作ればこういう風にできるんでしょね?



さて今回、この映画のテーマの一つに『生と死』があると思います。
アガルタ、日本で言うと黄泉の国が舞台ということもあり、アスナもモリサキ先生も死んでしまった人に出会うために旅に出ています(アスナは必ずしもそうではありませんが)。劇中でも出てきた『イザナギとイザナミ』の話ですね。
タイトルの『星』が『人』や『生命』を指しているんじゃないかなと思います。タイトルの英訳も"Children who Chase Last Voices from Deep Below"ですしね。
劇中で、星のないアガルタの夜空を見上げたモリサキが

『星が見えない夜というのは何か不安なものだな。自分の孤独をたまらなく実感する』

みたいな台詞(うろ覚えですが)を言っていたのも、このことを指しているんじゃないかなぁと。
ラストシーン(ちょっと重大なネタバレなので変色)、死者の復活に確執しそのためなら如何なる犠牲も厭わないモリサキは、アスナをリサの魂の器にしてしまいます。しかし、シンは『生きているものが大事だ!』とクラヴィスを破壊しアスナを救い出します。死した生命しか見えてないモリサキに対して、今を生き輝く生命(=星)を追い求めていたのは子どもたちだったんですね。

新海監督が打ち出したこれらの『死生観』には、個人的にとても共感できた、というか好きだなぁと思った表現がいくつかありました。

例えば、ミミが死んでしまったのち、マナがそれを胸に抱きながら祭壇で待ち、やがてやってきたケツァルトルに手渡し、ケツァルトルが飲み込むというシーン。村のじいさんが『より大きなものの流れに取り込まれる』と話すことをシンプルながらも雰囲気のある表現で具現化していたのが好きでした。
また、ケツァルトル自身が死を迎えるときに、己が体に取り込んだ死したものの思い出を歌に変えて歌うというシーン。『歌はやがて空気の振動となって我々の周りに溶けこんでゆく……』正直このアイディアは凄いなと感嘆して見ていました。ぜひ新海監督に何かモチーフにした民間伝承などがあるのか聞いてみたかったのですが、その機会を得られず残念……。


そんなこんなで長らく書き綴ってきたわけですが、勿論少し疑問に思ったことも何点かありました。

結局アスナはこの度を通じて「自分は本当は寂しかった」ことと「死んだものには2度と会えない」ことを気づきましたが、それが成長に繋がったのか?ということ。最期の『行ってきます』の少し大人びた笑顔の彼女は何を学んだんだろう。

もう一つは、シンについて。地上にはもちろんアガルタにも居場所を失ったシンがこれからどう過ごしていくのかは非常に気になるトコロでありました。地上人は地上に帰ったわけなのでまたアガルタの地にこれまでのように住まい、時折訪れるアスナを迎えたりして異種交流の架け橋になったりするのかなぁと妄想してます。EDでクラヴィスのかけらをアスナに再び手渡していましたしね。




さぁ随分長くなりましたが、感想はこのくらいにとどめておきましょう。ホントに気に入ってしまったのでキリが無くなってしまいます。
新海監督、次回作も頑張ってください!



さて今回、なぜこんな変な時期に、この『星を追う子ども』を見ることができたのかというと、タイトルにもありました、"CLARK THEATER"なるイベント?組織?のおかげなのです。 何でも『北大内に映画館常設を目指す学生団体』らしく、今は年に1回この時期限定で映画上映イベントを執り行っているようです。上映映画はミニシアター系の邦画洋画から昔の無声映画まで様々。周辺企業や飲食店の協賛も貰って学生らしい格安料金で提供しています。 そんで今回この『星を追う子ども』もその上映作品の中に選ばれた訳なんですが、それだけでは終わらなかった。なんと新海監督をゲストにお呼びしてトークショーまで開催すると! 本作は元々5月に東京などで公開されていたのですが、予告編を目にするくらいでなかなか行けず、上映期間が終わってしまったのを悔やんでいた自分……。そしたらまぁこんな渡りに船な企画が飛び込んできた……!大学での上映……!しかも500円……!しかも新海監督までやってくる……だと……!?ハイ、行かないわけないですね。前売り券買い忘れたので、当日の朝、同じような考えの人たちと行列を成し、チケットをGETした次第であります。 今回は本編もさることながら、トークショーもとても面白かった!本来は新海監督自らが「アニメーション映画の作り方」について実際用いた資料を使いながらプレゼンする、ものだったらしいのですが、プロジェクタの接続不良でこれを断念。急遽代わりに今月末発売のBD/DVD付属の特典映像を見せて頂いたり、門外不出の貴重な音源を聞かせて頂いたり、ちょっとしたアニメファンなら垂唾ものの企画となりました。詳細については監督直々の緘口令が敷かれたので伏せますが……新海監督もとらドラ好きだったんですねぇ(笑) あまりに気に入ったので勢いでファンブックを書い(こういう舞台背景がしっかりした作品の設定資料とか好きなので)、監督にサインと写真まで撮って頂きました。北大最後のいい思い出になりましたね、ホント。 ……まだ修論っていう超絶大イベントが待ってるんだけどもね。

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