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2011/06/13

谷川流『涼宮ハルヒの驚愕』を読んで+α

前回に続き読書感想文編第2弾。
今回の作品はこちら。





知る人ぞ知る超一大コンテンツ。小説やアニメを見たことない人でも『涼宮ハルヒ』の名を聞いたことのある人は結構多い印象がありますね。そんな『涼宮ハルヒ』シリーズの第10作目にして4年ぶりの最新作『涼宮ハルヒの驚愕(前・後)』をようやく読破したので、これについて少し感想と"想うところ"を述べようかと思います。ネタバレは……ほどほどにしておこうと思います(たぶん)



まず、『驚愕(前・後)』の2部構成になってますが、正しくは前作『涼宮ハルヒの分裂』も含めた3部作です。自分はほとんど続けて読んでいるのであまり気にしませんでしたが、リアルタイムで4年間も待たされた方はそれはそれは待ち遠しいことこの上なかったことでしょう。キリンさん大量生産。

さて読後の感想ですが、もう率直に言いましょう、
『面白かった』と。
『分裂』含めれば800ページを越す大長編でしたがあっという間に読んでしまった……と言うより読まざるを得なかった、と言う方が正しいですね。かと言って薄っぺらい内容だったというと決してそんなことはなく、読み応え抜群のシナリオだったあたりは、著者である谷川さんの文才に感服せざるをえない。

ストーリーに関して差し障りなく述べるならば、「SOS団の新入部員勧誘編」と「敵対勢力との抗争編」の"2本立て"になっています。色々と新キャラも登場します。どいつもこいつも一癖どころか癖しかないようなやつですが、物語に深く関わってくるメンバーです。未読の方はお楽しみに。

読んでみて、今回のストーリーは『確率』が一つのキーワードだったかなという気がしています。
読んでいながらヤスミは「確率を操作できる能力者なんじゃないか」とか考えてました(いや、実際にその能力を持ち合わせていたかもしれませんが)。涼宮ハルヒに目をつけられる確率、SOS団入団試験を通過する確率、新入部員になる確率、紙飛行機が狙ったところに到達する確率。どこかは忘れちゃいましたが確か「シュレディンガーの猫」なお話もあった記憶があります。そう思うならば、世界がある選択肢を境にどちらの未来を進むことになるかということもある種「確率」の話と言うことができますもんね。世界線的な意味で。逆に分岐して別々に存在していた世界がどこかでまた合流するなんてのも「確率」の話に置き換えることができる。

うーん……1回読んだだけじゃまだふわふわしててダメですね。暇を見つけてorある程度時間を置いてからまたもう1回読んでみようと思います。


巻を追うごとに思うことですが、『ハルヒ』シリーズを読むと本当に元気が出てきます。
初巻の『憂鬱』の冒頭では、タイトル通りこの世の全てにウンザリしていたようなハルキョンでしたが、今や「自分の生きる今この瞬間を精一杯楽しもう、だってそれが楽しいんだ、だから明日も楽しいんだ」という活力に満ち満ちている。背後には世界の存亡や進化・未来の可能性なんて大きな話も動いているんだけど、自分たちの帰る場所、居るべき場所は今ここなんだ、というこの『着地の安定感』は、この作品が大好きな理由の一つですね。
月並みですが、自分も今を精一杯生きよう、とか自分の可能性にチャレンジしてみようか、とかそういう前向きストレートなやる気を起こさせてくれます。
成程、セカイ系の一つの進化系と言われるだけはあるなと今さらながら納得。





それにしても『ハルヒ』シリーズを読んだことのない人は、ここまでを読んで「随分スケールのでかい話だな……」と、あなたの持っている作品イメージとのギャップに驚いている方もいるかも知れません。

2006年のTVアニメシリーズが爆発的なヒットをとばして『ハルヒ』の知名度が上がっていったと同時に、「萌え」に代表される可愛いアニメ・マンガキャラをひたすら愛でるというアキバ系ステレオタイプがメディアの中で流行しました。強力なコンテンツであった『ハルヒ』もまたその可愛らしいキャラクターを第一線においたメディア展開とイメージ付けが単独先行してしまったように思います。
その結果、物語の内容よりもキャラクターのビジュアルだけが着目され、消費される構図ができてしまった。それはこの『ハルヒ』に限らず、漫画・アニメ系のサブカル作品全体にも言えることではないかなと。その最たるものがここ数年で勢力を拡大した"ライトノベル"であろうと思います。売上の9割が表紙のマンガ絵によって決まると言われるライトノベル。かくいう『ハルヒ』シリーズも角川スニーカー文庫なるライトノベル系レーベルから出版されていますしね。
(「ライトノベルって何?」って思った方、最近本屋に行くと漫画コーナーでもないのに漫画絵が表紙の文庫本が大量に並んでいる区画があることに気がつくのではないでしょうか、あれが"ライトノベル"です。こう考えるとあの『もしドラ』もサイズがでかいだけのライトノベル以外の何ものでもないよなぁと思ってみたり)

とまぁ長ったらしく訳のわからんこと書きましたが、結局何が言いたいのかというと、『涼宮ハルヒ』もまた見てくれだけが評価or偏見の対象となってしまっていることが残念でならないのです。かつて私の部屋に並んだ『ハルヒ』文庫群を見て「気持ち悪い」とのたまった非オタの友人もおりました。あれが今思い返しても本当にショックでなりません。別に自分を気持ち悪い扱いされても今更どうとも思いませんが、これだけ力のある作品がそういうつまらない偏見で一蹴されている点、ただそれだけがショックだったのです。

『ハルヒ』シリーズは本当に良くできた"SF小説"であると思います(これ言うと本家SFファンで怒り出す人もいるかもしれんのですが)。表向きは学園青春モノではあるけど、背後に流れる宇宙論、時間論、異世界論etcは、SF初心者の自分にとっては読んでいて胸踊るストーリー展開になっています。ぜひ少しでも興味を持った方がいましたらお手にとってみてはいかがでしょうか。マンガ絵表紙は敷居が高いかもしれませんが、ブックカバーを併用、あるいは表紙カバーを外してしまえば普通の文庫になりますので!



とまぁ感想文といいつつ、日頃思っている言わば不満を長々とぶちまけてみました。
ここまで読んでくれた方には感謝します。器の大きさに惚れそうです。

『ハルヒ』は"オタクのライト化"にソフト面から貢献した作品であると思いますが、その一方でこういったキャラクター消費(偏見)の流れを作ってしまった面もあるのでは、と書いていて思いました。といっても消費や偏見の主体はそれを行う人間に他ならないので、作品の功"罪"と言うには大げさ過ぎるし無責任ですよね。
良くも悪く(?)もサブカル史に名を残し続けている作品だと思います。





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